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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

1月13日月曜日、曇り

*Googleの音声読み上げ技術によるYouTube「徒手空拳日記チャンネル」はじめました。

文字読むのがだるい方はどうぞ。

徒手空拳日記チャンネル - YouTube

音声入力で、4000字のブログを書くと、 Google の音声読み上げで、12分ぐらいになりますが、調子に乗って5000字ぐらいになると、15分ぐらいになってしまいます。これは長過ぎですね。勝間和代さんは、動画の尺は、5分を目標にしていると知って、ちょっと反省しましたので、尺を短くするために、今日から、2400字ぐらいで抑えようと思います。

今日は、私たちを取り巻く、メタレベルの「三つの変化」についてお話ししたいと思います。

インターネットは、テキストから、動画の時代に、急速に変わりつつあります。これは要するに、能動コンテンツから、受動コンテンツへの抜本的な変化です。テキストを目で追うという能動的な時間効率と、映像や音声という受動的な時間効率を考えると、動画のコスパの良さはぶっちぎりです。人類は情報が多すぎて、もはやテキストを読んでいる暇がないのです。

時間価値が大切になりつつあります。 YouTube の評価アルゴリズムも、再生時間を重視する傾向が強まっているようです。人々の時間シェアを獲得できるコンテンツが、いいコンテンツだということです。

それから YouTube で画期的だなと思うのは、 「いいね」ボタンと反対の「低評価ボタン」があることです。昨年の前半、この「低評価ボタン」が消えるのではないかという噂がありましたが、今もまだ残っています。Twitter などの他の SNS には、否定的な評価をするボタンは付いていません。 Tik Tok にも、「低評価ボタン」はついていません。YouTubeのアルゴリズムはよく分かりませんが、「いいね」も「低評価」もつかないよりは、「低評価」がついたほうが、マシなのではないかと思います。好きの反対は、嫌いではなく、スルーです。

YouTube などの動画サービスは、動画だからといって、動画広告をのっけるのではなく、これからより一層、 AI を駆使した動画コンテンツのマッチングサービスへと進化していくと思います。 いくら広告がうざいからといって、 YouTube Premium のサブスク会員になる人は少ないと思うので、 YouTube が収益の限界効用を超えていくためには、広告モデルをいつか捨てる時が来ると私は思います。ポスト広告モデルのためにも、「低評価ボタン」をやめることはないだろうなと思います。

大きな変化の二つ目として思うのは、メディアの有限性がなくなって、有限性があるのはコンテンツだけになりました。だから、メディアの価値よりもコンテンツの価値のほうが優位になりつつあります。これまで有限だったメディアでは、タイトであることが非常に重要でした。有限な尺の中で、とにかくタイトでなければならない。 タレントのスキルは、とにかくタイトに面白さを作れる人間でした。

しかしながらメディアがほとんど無限となって、決まった尺にタイトに収める必要はそれほどなくなりました。 Netflix のオリジナルドラマなどは、注意深く見ると、エピソードごとの長さは統一されていません。放送コンテンツは、有限なメディアの決まった尺に、収める必要がありましたので、尺を厳密にトリミングする必要がありましたが、インターネットのメディアはその必要がありません。

マスメディア時代に重要なスキルは、「有限な尺で、タイトな言葉を残す」ことでしたけれども、これからはオウンドメディアで、できるだけ長時間、習慣として、メッセージを届けることのできるスキルが重要になります。

例えば政治家で言えば、小泉純一郎は、まだまだテレビが圧倒的に強い時代の政治家だったので、彼は有限な尺に余裕で入る、ワンフレーズの、大衆扇動のポリティクスが 上手な政治家でしたが、 YouTube 時代になると、山本太郎や立花孝志のような、自分の無限なインターネット・チャンネルで、ひたすら長く、グダグダと、毎日のようにおしゃべりや演説ができる人のほうが、強くなりました。

自民党にしろ野党にしろ、既存政党の政治家は、だらだら面白いおしゃべりをひたすらする訓練がされていません。 YouTube のファンがつきにくいのです。それに対して山本太郎や立花孝志は、同じような内容を少しずつズラしながら、長い尺で、バージョンを微妙に変えただけで、繰り返しメッセージを出し続けます。牛の涎のように切れ目のない、習慣化させるコンテンツが、エンゲージメントをつくるのかもしれません。

有限性を前提とした競争をするという、これまでの資本主義社会の大前提が、変わってきているのかもしれません。決められたリソースの中で、とにかくハイテンションにならなければ損をしてしまうような競争ではなくなりつつあります。「24時間戦えますか」の終わりです。緊張ではなく、弛緩、つまりリラックスのほうが、価値に変わってきているのかもしれません。

スケジュールをいっぱいいっぱいにしていないと、仕事にせよ遊びにせよ、充実感が得られない、みたいなことが多幸感に繋がらなくなってきているのではないかと思います。そもそも多幸感を持つことが重要だという価値観そのものも、絶対のものではなくなりつつあります。有限な資源の奪い合いという時代が、終わりつつあるのだと思います。

わび・さび、といった価値が、再発見されつつあるのかもしれません。Wikipedia によれば、わび、さびとは、「陰性、質素で静かなものを基調とする。人の世のはかなさ、無常であることを美しいと感じる美意識、日本文化の中心思想である」と、あります。私に言わせれば、工業化社会の大前提だった「ハイテンション」の反対が、わび、さびです。

音楽やクルマやドラッグで、毎日ハイテンションに生きなければならないという、タイトな、焦りにも似た、陽性の、華美で、動的な世界観の、まさに真裏にある価値観が、わび、さびだと思います。

それから松尾芭蕉が、晩年に到達した俳諧の理念としての、「かるみ」も、再発見されつつあると思います。日常生活の身近な題材のなかに、新しい意味を見つけ出して、それを素朴にさらりと表現するアプローチが、「かるみ」です。

 竹内まりやの作詞した「いのちの歌」という歌に、次のような歌詞があります。

ほんとうに大事なものは

かくれてみえない

ささやかすぎる日々のなかに

かけがえないよろこびがある

この「ささやかすぎる、日々のなかにある、かけがえないよろこび」を、大切にする心持ちが、「かるみ」だと思います。