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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

9月17日火曜日、晴れ

エタノールを丸で受け付けない舌になって、乾杯の儀礼で、カタチだけでも酒に口をつけることすら、NGになってきた。なんちゃらサワーとかハイボールとか、大ジョッキ一杯の果糖ぶどう糖液糖の安い酒を嬉しそうに飲んでいる人が、心底お気の毒。最近のストロング系高度アルコール飲料とか、リキュール類のなんちゃってビールなぞ、果糖の化け物混ぜ物でしかなく、エタノール以外の成分も悪徳。南北米産の工業用とうもろこしから化学的に精製される安価な果糖と、これまた安価に化学精製されるエタノールを混ぜた飲み物を喜んで飲んでいる人々の心はどこにあるのだろう。こちらはお高くとまって、彼らをただ突き放している。飲み会に価値などない。

そんなことで、酒はもちろんノンアルコールビールも完全に無意味化してしまい、最近はカフェインも午後はNGなので飲めるのは水くらい。それでも困ることは特段何にもなく、水がうまいと感覚できて、むしろ多幸感が湧いてくる。

酒もたばこもゴルフも博打も一切やらないので、時々アホな猿未満から、「そんなスタイルで生きてて楽しいですか」とか聞かれるのだが、そういう薬物中毒人間と交流するのも穢れるので、できるだけ近寄らない。そういう奴らのイメージする「楽しさ」なぞ、奴隷のそれでしかなく、脳内麻薬依存者とは言葉でのコミュニケーションができない。

非僧非俗で生きられたら、最高に幸せ。最近はそう考える。脳内麻薬資本主義も唾棄すべきだが、いまさら出家なんてアホらしくてやってられない。宗教は確かにアヘンみたいなものだけど、宗教の衰退とともに盛り上がった資本主義も、資本主義の先にあるとされたマルクス・レーニン主義もまた宗教的アヘンという意味で、ますます邪悪なものであり、私に「そんなんで生きてて楽しいですか」と聞いてくる愚か者の「楽しい」とは、宗教的物質主義、あるいは凶暴なるスターリニズム、あるいはドーパミンの脳内分泌を金で買う新自由主義の世界観でしかない。

非僧非俗というビジョンは、未来にあるというよりは、人類の過去に原型があるはずで、宗教にも資本主義にもマルクス・レーニン主義にも毒されていないニヒリズムの生き方こそが、反朱子学カルトを掲げるこの私の理想なのではないかと思う。イマココが人類の最高到達点なのだという考えをすることは、底抜けに愚かなことで、先進が価値だと考えることもまた20世紀の価値であり、いっさいが虚しい。

アルコールが単なる麻薬だと気づいてから、他の快楽や常識もまた単なる麻薬かもしれないと疑うようになるのは自然なことである。

常識と考えられている大半が、単なる出鱈目、無価値なのではないかと疑うようになった。アルコールを飲まなくなって、エタノールの酔いから醒めただけではなく、この500年くらい人類の常識とされていることからもすっかり醒めてきた。

普遍的価値なんて、この世にはひとつもない訳で、そんなもの希求するだけムダなのである。「朱子学カルトのお前らこそ、生きてて楽しい?」

例えばリビングにテレビを置くレイアウトも無価値化しているし、そもそもリビングという空間も全然普遍ではない。家族が団欒する空間とは、家族を当たり前のものと肯定しているから存在するだけで、家族なんて要らない人からすれば、リビングなんてなんの意味もない。

昨日が敬老の日だったことも私には無価値ゆえ完全スルー、敬老思想そのものが邪悪な思想であり、昭和一桁世代や団塊世代などもはや劣化した肉袋でしかない。私は彼らになんの借りもないので、粛々と、この世からひとりまたひとり消えていなくなればよいのではないかと心底思う。

私の好きな西村賢太は、私小説家と言われるけれど、私にとっては、高度経済成長期の家族システムを完全に否定して無価値化している思想家のひとりである。犯罪者の父や、その父から逃れた母と今では完全に縁を切り、彼らによって産み落とされたことへの底なしの呪詛を書き続けている超人であり、彼の作品に貫かれるニヒリズムに共感する。

核家族とか立身出世とか恋愛などという敗戦後の慰安的価値観になぞ、本来なんの美徳もない。誤配されてこの世に生まれてきた人々の過ちを慰めて、なんとか前向きに洗脳しようとする奴らの魂胆には、金儲けしかない。

非僧非俗で毎日やっていく。それはそれでかなり楽しい。