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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

ニューノーマルとは、新世界ではなく退行 (5月30日土曜日、晴れ)

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油断とか、気の緩みという日本語は、もともとかなり精神論の、いい加減な意味でしかなく、そういう言い回しを好んでする人々の言うことはあまり聞いても仕方がないかな、と私は思います。油断するなとか、気の緩みに気をつけろとかは、どちらも人に、フル回転や、ハイテンションを強いるニュアンスですが、いま人類に必要なのは真逆のリラックスや、冷静さといった、間引きのほうです。

経済が失速しないように、ウィズコロナも、アフターコロナも気を張っていこう、という単なる掛け声では、感染の収束は却ってかなり先になると思います。気の緩み、なんてことを言い出すと、最近になって遅まきながら感染してしまった人には、またぞろ、気が緩んでいたからだと、お決まりの自己責任論になっていきます。東京などでは現に今も、あちこちで散発的な感染拡大がおきていて、韓国でも第二波を警戒する動きが出始めています。

インドのアビギャ・アナンドという占い師が、昨年8月時点のYoutubeですでに、かなり正確に今回のパンデミックを言い当てていたことが、いま注目されています。彼の予言はここでは終わっておらず、今年の年末には、さらに厄介なウイルスのパンデミックが起きると予言されています。北半球の秋以降で、第二波を予想する学者も多く、この予言は信じたくありませんが、やはり気になります。

しかしながら、このウイルスに限らず、不安や恐怖が間延びすると、あたかもまたかつてのよき日常に、サクッと戻れそうな気がしてきますから、不思議です。いわゆる正常化バイアスです。私もついつい、はやくサウナに行きたいなとか、あてもなく街をほっつき歩きたいなとか、思ってしまいますが、もとに戻りたいという気持ちそのものをもはや持ってはいけないんだなと、厳しめに思い直しています。2010年代は、いま思えば、リーマンショックからの正常化バイアスが強すぎたことで、私もずるずると、冷戦期の古臭いライフスタイルに、意味もなくこだわってしまいましたし、日本全体としても、多くの最後のチャンスを取り逃してしまった、反動の10年だった気がしてなりません。

人間はウイルスの存在するナノメートルの世界のことは、いまも実はあんまりわかっていないのですから、ウイルスとの戦いは、100%、非対称の戦いです。兵法に、彼を知り己を知れば百戦あやうからず、とありますけど、彼、つまりウイルスのこともこちらは、よくわかりませんし、こちらがそのウイルスにどう反応するのか、己についてもよくわからないので、戦っても勝てるわけはありません。なんだか最近の風潮を見ていますと、経済をまわすことが、ウイルスとの戦いであるかのようなこじつけが、どんどん増えてきました。多少の犠牲者が出ても、経済を止めるなというロジックは、そもそも間違っています。国は経済が止まっても、国民が生存できる補償をして、ウイルスが収まるまでひたすら鳴りを潜める、というのが本来あるべき姿です。人類は、コロナに勝つことなんて、できません。

ウイルスの感染リスクが消えないなかでも、気を緩めることなく経済をまわすことが、ウィズコロナのステージで、ウイルスのリスクが消えてから、国民一丸となって狂ったようにV字回復を目指すステージがアフターコロナという、完全に誤った使われ方が目立ってきました。日本人が、英語の前置詞をみんなで使い始めると、それは政財官学マスメディアにまんまとコントロールされている証拠です。要するに、気を緩めずコロナをよけて、自己責任で経済を動かせ、という命令にすり変わりつつあります。

来年に延期された東京オリンピックは、来年の7月にできなければ中止となります。東京オリンピックの開催も厳しいですが、東京オリンピックの半年後に予定されている冬の北京オリンピックさえも、へたすると中止になるかもしれません。日本人は、自らの思考の結果として、東京オリンピックをはやくきっちり中止にできないと、頑固な正常化バイアスから、自由になれません。

新しい生活様式なるキーワードも、日に日におかしな使われ方を始めていると思います。気を張って、自己責任で感染予防することが、日本ではあたかも新しい生活様式とよばれていますけど、そういう対処療法のことではありません。ニューノーマルというキーワードを最初に言い始めたのは、もともとアメリカのエコノミスト、モハメド・エラリアンだと言われてますが、彼がこのキーワードに込めたのは、リーマンショック後の低成長のことでした。ニューノーマルとは、元来が信用収縮への対処という意味でしたので、今回の新たなニューノーマルも、リーマンショックよりもさらにひどい景気後退への対応のことを示しています。

そう考えれば、ニューノーマルと聞いてまずやるべきは、やはり損切りなのです。低成長でも死なない、冬眠の準備をすることです。間違ってもV字回復などではありません。損失をできるだけ早く確定させないと、ずるずると事態は悪化します。その上で、人と人の接触確率が最小になるソーシャル・デザインや、生体情報と位置情報を活用する感染防止などの、自律分散型の社会をつくることが要なわけで、厚労省がウェブサイトで通達している、ごちゃごちゃ小うるさい新しい生活様式なんて、枝葉末節の、マニュアル集でしかありません。コロナそのものへの対応ではなく、コロナが加速している最悪のリセッションへの対応をこそ、真剣に考えるべきなのに、コロナへの対応さえしていれば安心という思考停止に陥りつつあります。

そして私は、ウイルスの活動が鈍くなるこの夏場には、改めて断捨離をしておくつもりです。特に、1970年代から最近まで、なんの根拠もなく必要に違いないと思いこんでいたものは、これからも本当に必要かどうか、ハードなふるいにかけようと思っています。特にヒエラルキー型の人間関係は、もうなくてもいいなと思います。私が社会人になって、ひたすら大切だとされてきた、会社という社会は、インターネットのない時代のインターネットだったわけで、インターネットがあればもう要らないのでは、と思います。

それから疎開先の目星をつけようと思います。幸い、リモートワークが、これから全く問題なくなりますので、都市と近郊の2拠点生活へシフトをはじめようと考えています。東京から少し距離を置いてみるつもりです。都内に住む意味がこれからどんどん薄れていきます。都市部のオフィスビルは、これからどんどんがら空きになっていくでしょうが、止められません。森ビルとか、これから冬の時代です。古いビルほど人が出ていってしまいます。

都心の地価が下がり続けることこそが、新しいニューノーマルなのです。時計の逆回転が起き始めます。ミシェル・ウエルベックは、「アフターコロナ時代はもはや以前には戻れない」というみんなの陳腐なビジョンを否定して、コロナのあとに我々が向き合うのは、新世界などではなく、「しょぼくなったこの世界」に過ぎない、と言っていて、そうだろうなと思いました。未来よりは1960年代、1950年代への、バック・トゥー・ザ・フューチャーならぬ、フォワード・トゥー・ザ・パストだろうと思います。この三十年間、ひたすら後退してきた後退国日本は更に後退して、1950年ころまで戻る可能性があります。

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